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当館会員、岩手大学名誉教授・竹本貞之先生は、去る三月二十三日午後二時四五分、享年九五をもって逝去なさいました。ついては、長年にわたりご交誼を結ばれた方々や、学窓や句会等で講筵に連なった方々と「偲ぶ会」を開催いたしたく存じます。
発起人 宇佐美公生 (岩手哲学会)
高橋 秋郊 (岩手ホトトギス会)
丸田 善明 (岩手真宗会館)
一、日時 五月十三日(日)午後一時三〇分~四時
二、会場 岩手真宗会館 (盛岡市東仙北二丁目二ー四五)
三、会費 1,000円 (晩年の御句を色紙に制作し偲ぶ会の記念品とするほか、茶菓代に充てます)
■竹本貞之 略歴
岩手大学教養学部教授、生活学園短大教授、盛岡大教授を歴任。盛岡大学の創設に尽力し、岩手哲学会長も務めた。
■告別式での表白
一人旅
一人の雪として払ふ一昨年、私の住職する寺に道場が建ち、その名告りとして白飛庵をお許し頂いて、ご揮毫をたまわりましたが、そのおり、併せて一人旅の句を半折に認めていただきました。知遇を忝のうして半世紀、この度、釋白飛・竹本貞之先生のお涅槃に接し、この一人旅の句を思うことしきりです。
白き飛ぶ─横殴りに降りしきる岩手の雪に貞之の〈之〉を重ね、故郷岡山をいつも思慕しながら岩手の人として九十六年の御生涯を全うされて、今静かに横たわっていらっしゃいます。
昨年末、転倒されて岩手医大の救急センターに入院され、一度退院の後再入院のまま盛岡病院で最期を迎えます頃、静かに眠り続ける先生に声を掛けながら、私は、一九六九年の夏、「思考について」と題された岩手哲学会での公開講演を思いだしておりました。
その講演で先生は、〈生きる〉とは、生きていることを〈生きる〉ことであり、それは現に生きていることの肯定であり生きる決意だと仰いました。生きていることを生きるということは、死を含まない。端的に生きることを生きるのだとも…。
雄渾な筆致で認められた最晩年の句が、今尊前に掲げられています。そこには、
長き夜の
まだ生きている
目を覚ますとあります。ふと目覚める。あぁ生きているのだという感懐でしょうか。生きていることの自覚─死するいのちを生きるのではないという、透徹した自覚者の、いのちへの眼差し─吾々は、単独者としてのみ生きているのではない。生は〈おのれ一個の生ではない。相結び、通い合うわれら〉なのだという〈いのち〉への信頼─。それは、近代の精神が陥ったニヒリズムを超える慧眼だと思われました。
今、ご葬儀の場に立ちて、穏やかな眼差しを感じています。
「一人旅」と題されたエッセイの結びには、
われわれは自分で発見したようにしか人から教われないものだとヤスパースはいう。わたくしは、少しでも何かが見えてくるたびに、これこそが師の教えでもあろうかと、そのつど、思いを新たにするのである。
とあります。この私に取りましても、これから先、同じように、〈師の教え〉を思う日が続きましょう。そしてその度に、鮮やかに先生の眼差しを感ずるであろうと思っております。
告別式にあたり、参集の方々と共に
尊敬のまことを披瀝して
お別れの言葉と致します。二〇〇七年三月二十七日
遺弟 釋 善 明